レイラが目配せをした。
その教室に居る数人の少女たちが、一様に頷く。
ターゲットは最前列、教壇の前に座る黒髪の少年。
授業終了のチャイムが鳴り響く。
間髪入れずに、少女たちがターゲットを取り囲んだ。

最初に少年の腕を掴んだレイラが焦って後ろ振り返り、叫んだ。
「やられた!逃げたわ!」
彼女が掴んでいるのは、カバンにジャケットをひっかけただけのダミー。
頭部のあたりには、ご丁寧に黒髪のウィッグが付けてある。
いつのまに?と慌てて周囲を見廻す少女たち。
と、教壇の下から小さな黒い影が飛び出し、教室の出口を目指した。

「緊急配備!ジョウが脱出!」
レイラが左手首の通信機に鋭く言った。
ここクラッシャーの養成スクールでは、通信機付きのウォッチは珍しくない。
これで、全学年の少女たちに状況を連絡できる。
とは言え、少女の割合は決して多くは無い。学年全体の2割程度15〜6人である。
命知らずのクラッシャー稼業。勧んで養成スクールに入れる親はあまり多くはない。
その果敢な少女たちのターゲット。ジョウは教室から廊下へ飛び出した。

今年9歳になったジョウは、学年でも小柄な方であった。
この年代は、概して少女の方が精神的にも肉体的にも成長が早い。
確かに少女たちはジョウよりも体格がよく、口も達者なようだ。
おまけにクラッシャーを目指す、お転婆揃い。ゲーム感覚で始めた「男子捕獲作戦」は実戦さながらであった。
獲物はもちろん、学年でも人気のある男子だ。
背はまだ小さいが、均整のとれた身体。やんちゃだが少し大人びた端正な顔立ち。強く光るアンバ−の瞳。おまけにクラッシャーの創始者ダンのひとり息子とくれば、少女たちの人気がない訳が無い。
そのずば抜けた身体能力と類まれな戦闘センスで、ジョウは幾度となく少女たちの手を潜り抜けてきた。
――そして今日も
少女たちとの戦いが始まる。

廊下の突き当たりの階段に向けて、ジョウは猛然とダッシュしていた。
最初の逃走で引き離す距離が、勝敗を分ける。
と、階段を長身の男性教師が下りてくるのが見えた。
神経質そうな白い細面の顔に、ストレートの長めの黒髪がかかる。ちょっと女っぽい。
(やばい!言語学教師のドーリアだ!)
ジョウは舌打ちする。
それが聞こえたかのように、ドーリアは叫んだ。
「ジョウ!廊下を走るんじゃない!」
そして続けて言った。「それと、この前のふざけたレポートの再提出はどうした!?」
うんざりして、ジョウは素早く踵を返す。階段の突破は諦めた。
当然ながら、追ってきた少女軍団と鉢合わせになる。
ジョウの目が左手の窓の位置を確認した。が、それよりも早くレイラが窓を閉める。
「逃がさないわよ!」
ジョウは着ているトレーナーのフードを瞬時にかぶり、左腕で顔を庇うようにして肘から窓に飛び込んだ。
派手なガラスの割れる音と共に、小柄な身体が窓の外へ消えた。

「ちょっと、まじ!?」
レイラをはじめ、少女たちが慌てて窓にへばりつく。
下をみると、庭の造成に来ていたトラックの荷台にひらりと降り立つジョウが見えた。
いくら二階からの落下といえども、地面の状態によっては危険すぎる。
ジョウはあらかじめ車のある位置を確認して覚えていたらしい。逃走経路の確認も、実戦では重要事項なのだ。
ドーリアが窓から身を乗り出してヒステリックに叫んだ。
「ジョウ!学校を壊すな!!」







しかし、第一防御線突破は日常茶飯事。少女たちは抜かりなく、第二防御線へと移行する。
ジョウが走り出した校門の方から、新たな少女たちが現れた。
(Uクラスのやつらだ……!)
ジョウは唇を噛み、再び校舎の中に飛び込んだ。階段を上がるとみせかけて、そのまま窓から中庭に出る。
左手の通信機をオンにして通信を傍受する。
「……よ。校舎に入ったわ。第一班、B階段で待機。第二班、追跡続行」
そのやりとりを聞いてジョウはにやり、と口の端をあげて悪戯っぽく笑う。

中庭からさらに向かいの校舎に飛び込んだ。その校舎の向う側は裏門。最終脱出経路だ。
走る速度を落とさず、廊下に出る。
「きゃっ」
「うわ」
出会い頭にぶつかって、小さな影が吹っ飛ぶ。
「ててて」頭を押えながら、ジョウが身体を起こした。
目の前に、金髪の少女が倒れていた。
「なんだよ!急に飛び出してくんな!」
自分のことを棚にあげて、喚いた。
少女ははじめ倒れた衝撃によるものか、ぼんやりジョウを見上げていたが、その翠色の瞳がみるみるうちに潤んできた。
「な、なんだよ」突然の少女の涙にうろたえるジョウ。
と、その瞬間。
足元から掬われるような感覚とともに、身体が宙に浮いた。
ナイロン製の網でジョウの小柄な身体がすっぽりと覆われ、上から吊るし上げられていた。

「かかった!」
廊下の影から少女たちが現れた。どうやら待ち伏せしていたらしい。
おまけに、すばしっこいジョウを油断させるためにひとりの少女を囮として当てさせたようだ。
彼の性格を見抜いた?作戦勝ちだった。
「ジョウを捕獲。作戦終了」
レイラが短く通信機に呟いた。肩まで伸びた栗色のカールした髪を、後ろに掻き揚げる。
「手こずらせてくれたわね。おまけにルーシーを泣かせちゃって」
腰に手をあて、オレンジ色の瞳を勝ち誇ったように細めた。

「くっそぉ。ウソ泣きしやがって……」
ジョウが倒れていたルーシーを上から睨みつける。
ルーシーがにっこり笑って、舌をだした。
「女の涙に弱いのね」

「さあて、今日こそはちゃんと答えてね」
レイラが大人ぶった口調で言った。
「私たちの誰を選ぶか」
この年代の少女たちはかなりマセている。
もちろん真剣な恋愛感情がある訳ではないが、誰が誰のことを好きか、なんてことが毎日の最大の話題の中心なのだ。
ジョウのことを気にしている少女はたくさん居る。その注目の彼が誰のことを好きか、これは断然彼女たちの興味をそそるところだ。
もしかして自分かも、なんて可愛い期待も無い訳ではない。
これが少女たちのゲームの趣旨であった。
ありていに言えば、完全にジョウをおもちゃにしているのだが。

「なんでお前達の中から、選ばなきゃいけないんだよ!」
ジョウは身体をくの字に曲げられ、手足を上にあげられたままの些か情けない格好でもがいた。
「いいから、早く下ろせ!」
生来負けず嫌いの彼は黒い瞳を炯らせて、歯軋りしている。
「男らしく観念しなさいな」
少女たちはくすくす笑って、彼を見上げた。

と、その時。少女たちの脇から声がとんだ。
「ジョウ!落とすぞ!」
いきなり窓枠から小さな手が現れ、ジョウを吊るしあげていたネットの紐をぶち切る。
声が聞こえたと同時に、ジョウは落下に備えて身構えた。
落ちながら網の口に手をかける。身体を丸めて、なんとか足から着地。
が、網が絡まって思うように出ることができない。
「逃がさないで!」レイラが叫ぶ。
これで少女たちに押さえ込まれたら、万事休すだ。
「受け取れ!」
ふたたび、声と共に今度は銀色の光が宙を飛んだ。
ジョウが網目から出した手で瞬時に掴む。小さなバタフライナイフだ。
素早く刃を開き、網を切り裂いた。慌てた少女たちが、ジョウを取り押さえようと手をのばす。
ジョウは咄嗟に前方に転がってその手をかいくぐった。
そして今切り裂いた網を、逆に少女たちに向かって投じる。
数人の少女たちが投げられた網から逃れようともがいた。
が、ジョウは容赦なく吊るしあげられていた長い紐を少女たちに廻すようにひっかけ、手前に引き寄せる。たまらず、少女たちが折り重なって倒れこんだ。
「ざまあみろ!」
短い捨て台詞を残して、ジョウは窓から外へ飛び出した。

ふたつの影が裏門の方へ疾走する。
「裏門はダメだ。きっと、待ち伏せしている」
ジョウが隣の少年を見て鋭く言った。
並んで走るのは彼よりも少し背の高い、すらりとした少年だった。
「だろうな。焼却システムの裏から出よう」
少年がすかさず、答える。
ふたりは見つかるのを防ぐように植え込みの間を走った。
すぐに焼却システムにでた。約2メートルの高さの建物である。
素早くあたりを確認してから、傍にあるメンテナンスボックスを足がかりにシステムの上に跳び乗る。
そしてその勢いを殺さず、ふたりは軽やかにシステムの天部を蹴り、後方の塀を飛び越えた。
あとは全力で逃走するだけだ。
膝を折って綺麗に着地したふたりは、申し合わせたように同じ方向に走り出していた。







大きな枝ぶりの常緑樹の上に、ふたりの少年は座っていた。
テラの樟に類する巨木であった。幹から枝に分かれるところは座り心地のよい場所となる。
「まいったぜ。いいかげんにしてくれよ……」
ジョウが両腕を頭の後ろに廻し、幹にもたれかかる。
すんなりと伸びた足を枝の上に投げ出し、げんなりとした表情でぼやいた。
さすがの彼も疲れ気味だ。
「人気者はツライねぇ」
平行して走る枝の根元にさっきの少年が、立膝で座っている。
口の端をあげて皮肉っぽく笑った。
ブラウンのまっすぐな髪が賢そうな額にかかる。

「でも、本当に助かったぜ。スレイ」
「おまえが捕まったあかつきには、俺にターゲットが廻ってくる。それはごめんだ」
スレイが肩をすくめて言った。
「さっさと捕まった方が楽になれるのかな?」
「どうかなぁ。一学年上のマッケイはズボン脱がされて、木の上から吊るされてたぜ」
「おまえ、嫌なこと言うなぁ」
ジョウは本当に嫌そうに顔を歪めた。
それを見てスレイが他人事のように笑って言った。
「まあ、お前も悪い。あんなにレイラやらアターシアがモーションかけてるのに知らん振りだもんな」
「なんだよ、それ」ジョウが訝しげに訊く。
「嘘つけ。先月のお前の誕生日、椅子の上にプレゼントが置いてあったろ。おまえ、それ気づかずに踏んでたろ」
スレイが昨日のことのように思い出して笑った。
「誕生日?あー、俺の?先月だっけ」当のジョウはそんな調子だ。
「トラップに気づくのは天下一品の早さなのに、どーしてそっちは鈍いのかねぇ」
スレイが大袈裟にため息をついてみせた。
「つまんねえこと、言うな。それよかこの前、面白い崖を見つけたんだ。クライミングの練習にはもってこいだ。今から行こうぜ」
ジョウは黒い瞳をきらきらと輝かせながら、言った。今にも駆け出しそうだ。
しかし、スレイはかぶりを振って答えた。
「わりぃ。今日は妹の誕生日なんだとさ。早く帰って来いって、母ちゃんうるさくてよ。
そうだ、お前も一緒に行こうぜ。きっとケーキかチェリーパイがたらふく食えるぜ」
「ふうん」
ジョウが面白くなさそうに鼻をならした。

ふたりはそれぞれの枝から、軽々と飛び降りた。
「いいや、今日はやめとく」
ジョウがトレーナーのポケットから銀色のバタフライナイフを取り出し、スレイに放った。
スレイが歩きながら、片手で器用に受け取る。
「なんでだよ。うちの母ちゃん、ジョウのこと気に入ってるんだけどなー」
ナイフをズボンのポケットにしまいながら、スレイは残念そうに言った。
「いっつもガミガミ怒るくせに、ジョウと一緒だっていうと何も言わないんだぜ」
「それはおまえの母ちゃんがおかしいよ。大体は俺と遊びに行かせないぜ」
ジョウが面白そうに笑った。

そうなのだ。ジョウは一部の母親たちに、あまり評判がよろしくない。
ジョウの無茶苦茶っぷりはスクールでは有名だ。いくらクラッシャーの卵とはいえ、遊びからして命懸けのようなところがある。それにたとえ卓越した運動神経のジョウは無事であっても、自分の子供たちがケガをしないとは限らない。自分の子供がジョウと一緒に居ると、慌てて手をひいて帰っていく親もいるくらいだった。

「それに……おまえの母ちゃん、大袈裟だからな。会ったら絶対ハグとキスの嵐だ」
ちょっと太めなスレイの母親に抱きすくめられた記憶がよみがえり、ジョウは困った表情になる。
大きな胸で窒息しそうな上、両頬に受けるキスはくすぐったくて、仕方ない。
別にスレイの母親が特別なわけではない。一般的にハグもキスも挨拶がわりだ。
しかし、殆ど母親を知らずに育ったジョウである。
ストレートな愛情表現に、正直どうしていいか分からないのである。
「そりゃ、仕方ないよ。兄貴なんて15歳になった今でも、毎朝キスで起こされるよ。すっごい嫌がってるけど」俺もそうなるのかなぁ、とスレイはぼやいた。
「ま、いいや。またそのうち来いよ。いつでもいいからさ」
スレイが片目をつむって言った。
「そうだな」ジョウはぼんやりと言葉を継いだ。
「おまえの母ちゃんのチェリーパイ、嫌いじゃないよ」


スレイと分かれてから、ジョウは暗くなってきた路をひとりで歩いていた。
ジャケットはダミーを作ったときに被せてきたので、今は着ていない。
12月の風の冷たさに首をすくめながら、トレーナーのポケットに手を入れる。
とぼとぼと歩きながら、去年の冬スレイと湖に落ちた時のことを思い出していた。

真冬の凍った池の上で、遊んでいた。
スクールからは勿論危ないので決して近づかないように、と通達が出されていた。
しかし、そんなことを気にするジョウたちではない。
毎年そうやって遊んでいたことにふたりは油断していた。氷の厚さは例年通りだったが、確実にふたりの体重は重くなってきていたのだ。
氷の薄い場所にふたりが来た時、あっけなく氷が割れ、ふたりは池に落ちた。

隣が公園になっていたことが幸いした。通行人からすぐに通報がゆき、救急隊が駆けつけてきた。
そして、すぐにスレイの母親も飛び込んできた。
氷点下近い気温なのに上着も着ていない。報せを受けてすぐに家を飛び出してきたのだろう。
いつもの緩慢な態度からは想像できないくらいの素早さでスレイの元に駆け寄った。
と、スレイの頬にいきなり平手打ちをくらわした。
ジョウの目が丸くなる。
しかし、次ぎの瞬間。スレイの母親は彼を抱きしめ、大声で泣き始めた。
救急隊もひるむくらいの号泣だった。
大きな母親の肩口からわずかに見えたスレイの顔は赤くなり、泣き笑いのような表情になった。
その様子を救急隊がかけてくれた毛布にくるまりながら、ジョウはぼんやり見ていた。
(何なんだよ。怒ったり、泣いたり……)

あの光景が時々、想い出される。自分でも何でだかよく分からない。
そのよく分からないこと自体、彼はもやもやして気に入らなかった。
そんな気持ちを吹っ切るかのように、ジョウはいつしか日も暮れた路を走り出していた。







自宅のワンブロック手前の歩道をジョウは走っていた。
と、角からレーサーサイクルが飛び出してきた。
咄嗟にジョウは車道側に飛びすさり、間一髪これを避ける。
その時、車道に停まっていた白いエアカーのドアがいきなり開いた。
さすがのジョウもこれまでは、避け切れない。
派手な激突音がした。


額に柔らかな感触のものが押し当てられていた。冷たくて気持ちがいい。
うっすらと瞳を開けてみるが、視界は白くぼやけている。
それが濡れたタオルだと気付くのに数分、かかった。
ジョウは唸りながらわずかに顔を動かし、額からタオルを落とした。

「気がついた?」柔らかい女性の声がした。
続けて、海のような深い碧い瞳がジョウの顔を覗き込んできた。
――何故だか分からないが、それは懐かしい色だった。

「エアカーのドアとぶつかったのよ。びっくりしたわ」
碧い瞳の女性は濡れタオルを持ち直し、ふたたびジョウの額を押えた。
こめかみから額にかけて鈍い痛みが走る。
ジョウは顔をしかめて、嫌そうに顔をそむけた。
「大きなコブになっちゃったけど、大丈夫かしら?」心配そうに言葉を続ける。
「お家へ連絡して、一緒に病院へ行きましょう」

「いい。もう帰る」ジョウは起き上がろうと上半身に力を入れる。
「だめよ。気を失っていたのよ。しばらく寝てなきゃダメよ」
女性は身をかぶせるように、ジョウを制した。長いまっすぐな黒髪が目の前で揺れる。
確かに一瞬めまいがして、ジョウは目を閉じてベッドに身を戻した。
あんな鋼鉄のドアにぶつかったのだ。このぐらいで済んでいる方が不思議なくらいだ。

ジョウが観念したのを見て、女性はタオルを濡らすためにベッドから離れる。
「どこのスクールに通っているの?家はこの近く?」
薄目を開けてジョウは部屋の中を確認した。
アイボリーの柔らかな壁紙とオーク材の家具。右上の窓にかかるアプリコット色のカーテンが落ち着いた部屋に彩りを与えていた。
ベッドサイドにある小さなテーブルにはアネモネの花が活けられている。
ジョウが今まで訪れたことのない、優しい雰囲気の部屋であった。

「どうしたの?気分でも悪い?」
応えの無いジョウの様子に、ふたたび近づいてきた女性が心配そうに覗きこむ。
ほっそりとした容姿は少女のようだが、雰囲気に大人の落ち着きがある。
年齢は25、6歳くらいだろうか。
額の中央から分かれた真っ直ぐな黒髪が小さな顔のラインを隠す。
つぶらな深い碧い瞳が、じっとジョウの様子を見ていた。
ジョウは何となく、目を逸らした。

女性は今濡らしてきたタオルをジョウの額に優しく添えて言った。
「お家の電話番号を教えてちょうだい。お母様に連絡をとってみるわ」
「家には、誰もいない」ジョウがぼそりと答える。
「出かけているの?連絡を取る方法はあるのかしら?」
女性が困ったように言葉を継いだ。
ジョウはむっつりと黙った。

黙ったジョウの様子を、女性は具合が悪いと思ったようだった。
少し慌てて階下の部屋に向かった。
時間は夜7時を少しまわっている。今から病院で診てもらえるかどうか連絡を入れてみた。
額の傷の具合、意識の有無等から緊急ではなさそうだが、念のため来院するようにと勧められた。
その時、庭に居るバトラーの吠える声がした。
慌てて電話を切って、外を見る。しかし、夜の帳の中には何も見えなかった。
首を傾げながらも、二階に上がり扉を開ける。
「心配だから、病院に行きましょうね」
――しかし。ベッドの中はもぬけの殻だった。
傍の窓が半分開き、アプリコット色のカーテンが風に揺れていた。







ジョウは次の日、スクールを休んだ。
別に怪我がひどかった訳ではない。コブはできたが、元々丈夫な身体だ。気分も悪くはなかった。
しかし何となく行く気が起きなかった。
それは今年に入って18枚目のガラスを割ったことと、行ったところでまたもや放課後の女子たちとの逃走劇が目に見えているからだった。
――要するに完全なサボリなのだが。

ハウスキーパーのマディ婆が簡単な身の回りの世話をして帰って行った。ジョウの額の大きなコブにアイスシートを貼って手当てもしてくれた。
彼のこんな怪我はいつものことなので、彼女はたいして驚いてはいなかった。
ジョウは午後から庭に出て、一片の木を削りだしにかかった。
使いやすいナイフの柄を作ろうと思っていたのだ。木は硬いウォルナットを選んだ。
大体の形を削り出し、サンドペーパーを当てようとしたその時。
大きな金色の毛のレトリバーが庭に飛び込んできた。

「うわっ!?」
横から覆い被さるように抱きつかれ、たまらず倒れ込む。
大きなレトリバーが小さなジョウの上に乗り、嬉しそうに尾を振っていた。
「だめよ、バトラー!離れなさい」
涼やかな声が聞こえた。黒髪をなびかせ、あわてて駆けて寄る女性の姿が目の端に入る。
白いロングコートを着た昨日の女性だった。
金色の毛を掴み、必死でレトリバーを引き剥がす。
「大丈夫?また頭打っちゃったかしら?」
急いで小柄な身体を助け起こす。そっと頭に手を添えて、碧い瞳が覗き込んだ。
「ごめんなさい。ジョウ」

ジョウの家のリビング。ジョウはソファにぐったりと寄りかかっていた。
レトリバーは庭につながれて今は大人しくしている。
女性は勝手にキッチンに入り、トレーに何かを載せて出てきた。
「本当に悪かったわ。バトラーも悪気はないの。人なつっこいだけなのよ。許してあげて」
トレーの上には淹れたての紅茶のカップと小さなタルトがふたつずつ載っていた。
それらをソファの前のローテーブルに手早く置いてゆく。
「今朝、焼いてみたの。一緒に食べましょう」
女性が向かいのソファに座って、にっこりと笑った。大輪の花が咲いたような華やかな笑顔だった。
しかし、ジョウはと言うと。不審な目で遠慮なく女性を睨んでいる。
「どうしたの?」
女性は笑顔のまま屈託なく訊いた。
「名前」
「?……ああ、ごめんなさい。私、アリエスと言うの。昨日慌てていたものだから、すっかり言いそびれちゃって」
「ちがう。なんで俺の名前を知ってる?」
ジョウがふてくされたように言った。
「ああ、そっちのこと?」
アリエスは人差し指を口元にあて、面白そうに笑った。
「あなた、左腕に通信機付きのクロノメーターしてたじゃない?それにあの身のこなし。たぶんクラッシャーの養成スクールの生徒だと思ったから。校門で女生徒に訊いたら、すぐ分かったわ」
女生徒、と聞いてジョウはあからさまに嫌な顔をした。
アリエスはそんあジョウの表情を気にもせず、話を続けた。
「悪いと思ったけど、家も教えてもらったわ。玄関脇のモミの木が目印ですぐ分かったの」
アリエスはふっと碧い瞳を翳らせた。
「だって、昨日急に居なくなっちゃったから、わたし心配で……」
ジョウは慌ててきまり悪そうに、窓に目をやった。

突然、庭の方でバトラーが吠え出した。それが合図のように玄関のチャイムが鳴る。
「あら、お客様?」
アリエスが自然な動作で玄関に向かった。
ジョウはあまりにもあっけらかんとした彼女の動作に呆れたが、と言って止める気にもなれず、ソファにぐったり埋まったままだった。
玄関からアリエスが声をかけた。「ジョウ、お友達よ」
自分ひとりだったら絶対居留守を使っているところだが、アリエスが扉を開けてしまった以上出ない訳にはいかない。
ジョウはのろのろとソファから降り、玄関に向かった。

「ジョウ君の、忘れ物です」
かなりぶった態度でレイラがカバンとジャケット、そして黒髪のウィッグを差し出した。
後ろにはルーシーと少し小柄なアターシアが見える。
「あら、こんなもの忘れてきちゃったの?」
昨日の出来事を知らないアリエスがそれらを面白そうに受け取った。
ジョウは舌打ちして3人の少女達を睨みつけた。
さっきからバトラーが吠え続けている。
「嫌ね。うるさいわ、あの子」都合よく、アリエスが庭へ向かうために奥へ引き返した。

「何しに来た」ジョウが壁にもたれて腕を組み、少女達を睨みつけたまま言う。
「ひどい言い草ね。お見舞いに来たのよ、あたしたち」
ねー?とレイラが後ろのふたりを振り返ってくすくす笑う。
「案外、元気そうね。今日はもしかしてサボリ?」
「お前たちにさえ会わなきゃ、いつだって元気だ。用が終わったんなら、帰れ」
かなり不機嫌な顔で、外に向かって顎をしゃくる。
「ひどーい。私たちをさっさと帰して、あの綺麗な人とデート?」
ルーシーが小さな拳を口元にあて、わざとらしく言う。
「なに?」ジョウが思わぬ台詞に少し顔を赤らめた。
それを見逃す少女達ではない。
「何?図星?」
「えー?年上が好みだったの?」
「私たちから逃げ回ってるのって、そーゆーこと?」
次々と勝手なことを喚き散らす。ジョウの堪忍袋の緒が、音をたてて切れた。
「うっさい!とっとと帰れ!!」
少女達をまとめて玄関から蹴り出し、派手な音をたてて扉を閉めた。

扉を背にして大きな吐息をつく。
しばし心を落ち着けた後、ジョウはふらふらとリビングに戻った。
アリエスはソファに座り、悠然と紅茶を飲んでいる。そして、にっこりと笑って言った。
「モテモテね。ジョウ」
ジョウは唸って、ソファに顔から倒れ込んだ。







アリエスはクラッシャーの妻であった。
夫のガーベイは当然のことながら、宇宙を駆け巡っている。
彼女は他のクラッシャーの家族がそうであるように、惑星アラミスで夫の帰りを待っていた。

そんなアリエスはどうやら、ジョウがすっかり気に入った様だった。
また、マディ婆と知り合いだったのも幸いに、何かと用事を作ってはジョウの家を訪ねてくるようになった。
菓子を作ったと言っては持って来て、勝手にお茶を入れておしゃべり。
(もちろん、一方的にアリエスが話して帰る)
バトラーの散歩の途中に綺麗な花を摘んで来ては、これまた勝手に花瓶を取り出し、リビングに活けてゆく。
(もちろん、ジョウの好みなど訊かない)
ジョウが不在の時は玄関先にメモと一緒にそれらは置いてあった。

ほとんど独りで気ままに過ごしてきたジョウは、これらの出来事が初めはとても鬱陶しく思えた。
しかし、アリエスは繊細な少女のような見た目と違って、自由奔放で大らかな性格だった。
アリエスの大輪の花が咲いたような華やかな笑顔や、自分の名前を呼ぶ涼やかな声にジョウはだんだん慣れてきていた。
そうして、いつしか・・・それが心地よいものになってきている。
今までジョウの周りには、うるさいクラッシャー少女達か、ハウスキーパーのマディ婆、そしてスレイの母親など、女性像は限られていた。
そんな中に現れたアリエスは、ジョウが今まで遭遇したことのない不可思議な存在だ。
同年代の少女達とは違う落ち着いた雰囲気。しかしながら、しっかりとした母親達とは異なる可憐な初々しさ。どっちつかずの中間的な、何とも気になる存在。
それはジョウにとって初めての淡い想いなのか、はたまた若くして亡くなった母親への思慕なのか。
――勿論、本人はそんな気持ちにさえも気づいていないのだが。

ほとんど毎日のように顔を見せていたアリエスが、この2、3日姿が見えなかった。
ジョウは何となく今日あたりは来るだろうと思い、特に用事もないのに庭に出て、路を伺っていた。
しかしその日も、陽が傾く頃になっても彼女の姿は見えなかった。
ジョウは何となく、ふらりと散歩に出かけた。

白い壁の小さな家の前に着いた。モッコウバラの生垣越しに家の中の様子を伺う。
二階の南側の窓に灯りがともっているのが見えた。先日、ジョウが寝かされていた部屋だ。
小柄な身体を利用して、生垣の下からそっと庭に潜り込む。
手近な小石を拾って、灯りのついた窓を狙う。
(割らないように手加減しないとな)
右腕を肩口に振りかぶったところへ。バトラーが後ろから嬉しそうに飛び掛ってきた。
「ぶっ」
狙いが狂った上に、バトラーの勢いが加勢されて小石は一階の窓にまっすぐ飛んだ。
派手な音がして、ジョウは今年19枚目のガラスを割った。







「今日のことに関しては、バトラーは悪くないわよ」

アリエスは悪戯っぽく片目をつむって言った。
例によって二階の部屋。小さなテーブルを挟んで座るジョウにホットココアを手渡した。
ジョウはふてくされた表情のままカップを受け取り、一口すする。
額にはまた懲りもせず、白いリバテープが貼られていた。

先日寝かされていた部屋の雰囲気と違うことに気づき、ジョウは辺りを見回した。
その様子を見て、アリエスは恥ずかしそうに説明する。
「ガーベイが久し振りの休暇で帰ってくるの。この2、3日片付けの真っ最中なのよ」
家具の配置も少し変わっているが、とにかく細々としたものが扉から棚から出されて床やテーブルに置かれていた。確かにアリエスは片付けが苦手のようだった。
「いつも余計なものは捨てろ、って怒られちゃうの。帰って来る度に大掃除で、困るわ」
綺麗な形の眉を寄せながらも、口元は嬉しそうに微笑んでいる。
何でそんな言葉とは裏腹な表情をするのか、ジョウはよく分からなかった。

部屋の中を見回していたジョウは近くのサイドテーブルの上の写真に気付いた。
「これが、ガーベイ?」
銀細工の写真立てには黒髪を短く刈り上げた男性が写っていた。角張った顔と小さな目が誠実そうだ。背はあまり大きくないが、鍛えられた体躯にはクラッシュジャケットがよく似合っていた。
「そうよ。男前でしょ?」
アリエスが恥ずかしげもなく言った。
その隣の枠には結婚式の写真も飾られていた。
シンプルな胸元が少し広めに開いたウェディングドレスを身に纏い、写真の中のアリエスは嬉しそうに微笑んでいた。結い上げた黒髪と透き通るベールに、白い薔薇の花びらが可憐に散っていた。
「おまけに新婦も美人でしょ?」
アリエスがまた得意気に言葉を継いだ。
「ふうん」ジョウはわずかに顔を赤らめ、興味なさそうなフリをして元の位置に戻した。そして、すぐ隣の写真立てに手を延ばす。

その真鍮の写真立てには、翼を持つ小さな天使が彫られていた。
天使の顔の部分からは、赤い顔をした新生児の写真がのぞいていた。
生まれたばかり、まだ生き物らしさの残る小さな生命体。
「へんな顔だな」ジョウは無遠慮に言った。
「あら、ひどい。それは本物の天使よ」アリエスがむっとした声で言った。
「これが?」
「そうよ。あんまり可愛いから生まれて10日目で天に召されてしまったの」
アリエスは謡うように言った。
「私達の息子のルカは、天使になっちゃったの」

ジョウは子供ながらにもその意味を理解した。
何と言ってよいか分からず、黙ったまま写真をテーブルに戻した。
「……ごめん」
「やだ、大丈夫よ。もう3年も前の話なの」アリエスは寂しげに笑い、遠い目をした。

「最近、想い出すことが少なくなってきたわ。あんなに可愛いルカのことを。酷いのよ、私」
アリエスがその碧い瞳を哀しそうに曇らせる。
「とても短い間だったけど、私達の元に来てくれたのに。でも今はきっと天国で独りぼっち……」
最後の方は呟くように小さかった。細い肩を落として窓の外に目をやる。
涙も出尽くして、泣くこともできないようなアリエスの姿を見るのは、辛かった。

「そんなことないよ」ジョウがその漆黒の目を光らせて、強く言う。
「天国には俺の母さんが居る。きっとルカも一緒に居るよ」

アリエスは驚いたようにジョウを見た。
そして。しばらくしてから緩やかな動作で椅子を降り、ジョウをそっと抱き寄せた。
「そうだったわね」ジョウの癖のある黒髪に頬をよせ、小柄な身体を包み込む。
「あなたは独りなのに強くて……優しいのね」

他人に触れられることを極端に嫌がるジョウであったが、アリエスの抱擁は自然に受け入れられた。
気持ちの落ち着くいい香りに包まれながら、小さく呟いた。
「母さんの想い出なんて、何も無いよ。だから寂しくも無い」







ジョウ達はショッピングモールに来ていた。
休日のモールは家族連れや若いカップルで賑やかに混みあっている。
通常ならジョウがもっとも嫌う場所であった。
しかし、今回ばかりはアリエスのお供をしなければならない理由があった。
「うちの大事なガラスを割ったのよ。このぐらい付き合っても罰はあたらないわよね?」
にっこりと笑うアリエスは、本当に楽しそうだ。

「んー。どれがいいかしら?何色がいいと思う?ね、ジョウ」
メンズショップでアリエスは既に1時間以上、悩んでいた。
「俺に訊くなよ。ガーベイに会ったこともないんだぜ」
何度目かの問いに、何度目かの同じ答えをする。すっかり飽きてしまった彼は今すぐこの店を飛び出したくて、大きなウインドウの外を何度もちらちらと見ていた。
「ごめん、そうだったわね。じゃあ、これとこれならどっち?」
ジョウは黙ったまま、ほとんど候補を見ずに片方を指差した。
「やっぱり?私もそう思ってたのよ!」アリエスが嬉しそうにネイビーブルーのセーターを手に取った。
(金輪際、女の買い物には付き合わないぞ)
ジョウは9歳にして固く心に誓った。

「んー、じゃあこれとこれはどっち?」
「まだ、あんのかよ!」
とジョウが目を剥いたその頭に、ニットキャップが被せられた。
「似合うわ!このグレイがいいかしら?それともグリーン?」
アリエスが楽しそうにキャップを取り替える。
「俺、帽子なんか要らないよ」
ジョウが恥ずかしそうにキャップを脱いだ。
「だめよ!頭は大事よ。ただでさえ、怪我が多いんだから」
アリエスはグレイのキャップを取り上げ、セーターと一緒に店員に渡した。
「これ、プレゼント用にラッピングお願いします」
唖然としているジョウに向かって、アリエスが満面の笑顔で訊く。
「リボンの色は何色?」
「リ……!?」慌てて両手を振るジョウ。
「そう?今、かぶって行くみたい」
あっさりとアリエスは言い、店員から受け取ったキャップをジョウの頭にかぶせた。アイリッシュグレイにダークグリーンのラインが入っている。
「おでこのテープが隠れて、いいカンジよ」ジョウの耳元で囁いて、楽しそうに笑った。
ジョウは唸るしかなかった。


モールのレンガ通りに面したカフェにふたりは座っていた。
アリエスはホットショコラとバニラアイス。ジョウの前にはショコラ・ア・ラ・モードが置いてある。
「ここはショコラでは有名な店なの。美味しいのよ」
アリエスが嬉しそうに言って、カップに口をつける。
ジョウはずり落ちてくるニットキャップを目の上まで押し上げながら、スプーンを口に入れた。
小さなプリンの周りにはバニラとショコラのアイス、フレークと果物が盛り付けられている。
確かに美味しかったが、慣れない店の雰囲気にジョウはいささか居心地が悪い。
辺りをそれとなく見回していると、斜め前のテーブルの母子が目に入った。
5、6歳くらいの男の子が大きなパフェと闘っている。すでに口の周りはチョコだらけだ。
「やだ!ちゃんと口を大きく開けて、入れなさい!」
若い母親が甲高い声を上げて、子供の顔を上に向かせる。厳しい声とは裏腹に、ナプキンで子供の口の周りを優しく拭う。
その手つきを、ジョウはぼんやり見ていた。

「ねぇ。私もそれ、一口もらっていいかしら?」
突然、アリエスの声がジョウの思考を遮った。
「あ?ああ」ジョウは慌てて正面を向き、何度も頷く。
アリエスは自分のスプーンを持ち直しかけたが、ジョウの顔を見て面白そうに笑った。ジョウの左の口端にもショコラクリームがついていた。
「やあねぇ」と、いきなり白い指が伸びてきてジョウの口元をそっと拭った。そして、その指を自分の方にもどし、猫のように舐める。
「あら、やっぱりそっちも美味しいわ」
「な、なにすんだよ!」ジョウは真っ赤になりながら、左手の甲で口を拭う。
アリエスはきょとん、と目を丸くしていたが、すぐに自分のバニラアイスを差し出した。
「ごめんね。こっちも食べていいわよ」
「い、いらねえよ!」
どうも調子が狂うジョウであった。







「その……クロノメーター、素敵よね」
アリエスがジョウの左手に巻いてある銀色の時計に視線を止めた。
「ああ、これ?親父が誕生日にくれたんだ。アストロノイツ仕様なんだぜ」
ジョウが左手を持ち上げ、誇らしげにそれを撫でる。
「もう来年からは、見習いで親父の船に乗り込むことになってる。宇宙に出れるんだ」
漆黒の瞳をきらきらと輝かせ、本当にジョウは嬉しそうに言った。
「ほんと?ダンの船に乗るの?凄いじゃない!」アリエスは自分のことのように、無邪気に喜んだ。
「銀河系随一のクラッシャーの船に乗れるなんて、皆が羨ましがるわ」
「ただの見習いだぜ。でも……そのうち、俺が親父を抜いて一番になるさ」
ジョウが悪戯っぽくニヤリ、と笑う。そして大口をあけて、アイスを頬張った。
そんな大人びた口調と子供っぽいしぐさが対照的なジョウを見て、アリエスが噴き出した。
「よく言うわ。ただの見習いのクセに」
そして、碧い瞳を優しく細めてジョウを見つめる。
「でも……きっとジョウなら、なれるわ。銀河系随一のクラッシャーに」







「でも……ジョウが宇宙に行ってしまうと、寂しくなるわ」
足元のレンガを一歩ずつ確かめるように踏みながら、小さくアリエスが呟く。
ふたりはカフェの外に繋いでいたバトラーを連れ、家路についていた。
短い冬の夕暮れ。細く残った陽光が、モールのレンガを敷き詰めた通りを幾何学模様のように照らしていた。

「たまにはアラミスにも戻ってくるだろ」
ジョウは頻繁にずり落ちてくるニットキャップと闘いながら、ぶっきらぼうに言った。
「うそうそ」
アリエスが小さく肩をすくめて笑った。
「クラッシャーの男はみんなそう言うの。でも戻ってきたためしなんか、ありゃしないわ」
そして前を向いて寂しそうに言葉を継いだ。
「さっき、ガーベイから連絡があったわ。また休暇が取り消しになったみたい……」
「え?ガーベイ、戻って来ないの?」
ジョウは驚いて顔を上げた。
そう言えばアリエスは先ほどのカフェで携帯が鳴って、あわてて席を外していた。

「そうよ。また今年のクリスマスも独りだわ。こんな美人の奥さんをほうっておいて!」
口を尖らし、大きなペーパーバッグを肩に引き上げた。
「このセーターも明日、ギャラクシー・パックで送り付けてやるわ!」
威勢のいい口調とは裏腹な、アリエスの寂しげな横顔をジョウは心配そうに眺めた。
その視線に気づき、アリエスはふっと微笑をもらす。
「いいのよ、もう。慣れっこなの。クラッシャーと結婚したんだもの、仕方ないわ」
そして急に真面目な顔をしてジョウの方に屈みこみ、人差し指を突き出した。
「でも、いいこと。ジョウはちゃんと帰ってきてあげるのよ。休暇なんて短くてもいいの。アラミスに帰ってきて、奥さんを抱きしめて。そして、キスしてあげるのよ!」
「キ……!?」
ジョウが慣れない言葉に耳まで赤くなり、目を丸くした。
「そうよ。女の人は男が思っているほど、強くないんだから……」
赤くなっている傍らの少年なぞ気にも留めずに、アリエスは上体をゆっくり戻して呟いた。
最後の方は独り言のように小さくて、ジョウにはよく聞き取れなかった。


夕闇迫るモールはクリスマスシーズンを前に、色とりどりのイルミネーションで輝きはじめた。
ショップの前の植え込みや葉を落とした街路樹を小さな発光ダイオードが煌かせる。
道行く人々はそれぞれ、愛する家族や恋人のために選んだプレゼントを大事そうに抱えている。
子供がウィンドウを指差して、たしなめる母親を困らせていた。
「クリスマスって、嫌いだ」
紫がかった闇の中に浮かぶ数々の光景をぼんやり見ながら、ジョウは言った。
「そうなの?プレゼントがもらえるわよ」
「サンタなんか、居ないのさ」
「子供らしくないのねぇ」
ふてくされたようなジョウの態度にアリエスが声をあげて笑う。
「でも、私もクリスマスは嫌い」
ふっと笑いを止めて、アリエスは静かに言った。
「天使がルカを連れて行ってしまったのが、クリスマスの朝だから」

ジョウはちょっと驚いたように横を見上げる。
周りの夕闇のせいで、アリエスの横顔はよく見えなかった。
しかし、樹々を飾るイルミネーションが彼女の瞳だけを照らしていた。
その瞳に映る光の輪郭は、潤んでぼやけているようだった。
「でも、このイルミネーションは好きなの」
アリエスは遠い目をしたまま、ふっと苦笑した。
「皆が寝静まった夜中に、ひとりで樹々を飾る光を見に来るの。
まっすぐな通りを飾る光はそのまま夜空の星と一緒になって……天使が降りてきそうなのよ」
ジョウは無言で、闇の中でよく見えないアリエスの横顔に目を凝らした。
「ルカを連れて戻って来てくれるかも……」
呟くように言いかけて、口をつぐんだ。「そんなクリスマスも……もう、三度目なのね」

「俺の家の前に、中位のモミの木があるだろ?」
今まで黙っていたジョウが突然、口を開いた。
アリエスがはっと我に返り、傍らの少年を見る。
「あれにクリスマスの前の晩に水をぶっかけておくんだ。そしたら翌朝その水が凍って、たくさんのつららが木の枝や葉から下がって、とても綺麗なんだ」
またズレかけたニットキャップを持ち上げながら、通りのイルミネーションに目をやり、言葉を続ける。
「こんなに豪勢なツリーじゃないけど。でも、俺はその方が好きなんだ」
アリエスは驚いたように碧い瞳を見開いていた。
が、すぐに嬉しそうに小さく笑い、ジョウの顔を覗き込んだ。
「素敵ね。私も見てみたいわ。今年もやってくれる?」
「あ、ああ。別に、構わないぜ」
間近にアリエスの顔がきて、ジョウは少しうろたえて答えた。
「嬉しい。バトラー、見に行きましょうね。今年のクリスマスが楽しみになってきたわ!」
傍らを歩く金色の毛の大柄なレトリバーの首をなでる。
飼い主に影響されたのか、バトラーも嬉しそうに尾を振って足取りも軽やかだった。
そんな少女のように喜ぶアリエスを見て、ジョウはほっとしたと同時になんだか可笑しかった。
(女って、なんだか単純だな……)




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