その日の気分は、ほんとうに最悪だった。

 朝からヤツと派手な喧嘩をぶちかましたのだ。
もう、ほんっとに頭にきた。今回ばかりは、ずぅえったいに帰ってやんない。
 ヤツと付き合い始めて、もうすぐ八年になる。今までだって何度もささいな喧嘩をして幾度も思ったわよ、今回ばかりは!ってね。でも、よくある話だけどいつのまにかなんとなく軌道修正して、だらだらと一緒にいるワケ。
 でも、もう限界。あたし達はイイ歳の大人になったんだ。付き合い始めた頃のウブなカップルじゃない。
何があっても好きな人なら許せる、なんていう恋人たちの設定は、どっかのムービープロダクションにでも売り飛ばせばいい。
仕事や自分の趣味にかまけて、ヤツは全然あたしのことが分かってない。
「何でそんなに怒ってるんだよ?」だって?はん、自分の胸に訊いてみろっつーのよ!
 ――なーんて、腹ン中で一気にまくしたててる時に。
彼らが乗り込んできたのだ。

 ヤツを罵倒するのにエキサイトしていて全然気付かなかったのだけど。
あたしが乗っている列車は、とある大きな分岐ステーションに停車していた。
 その日のエクスプレスは観光客で混み合っていた。
独りで四人掛けのボックスシートの窓際に座っていたあたしの前に、席を探しながら二人連れが通りかかった。車両の前方を見渡しても空席が無かったのだろう。ここいいですか?と申し訳なさそうに訊いてきた。
どうぞ、と反射的に応えたものの、すぐにあたしは胸の中で舌打ちした。

 ――カップルかよ。
よりによってこんな最悪な気分の時に、目の前でいちゃつかれたらたまったもんじゃない。
あたしは気が短いんだ。おまけに朝からかなりイラついてる。ぶち切れて何言いだすかわかんないよ?
かなり不機嫌な顔で今まさに、目の前に座ろうとするふたりをちらり、と見た。

 正直、驚いた。それまで頭にキていたヤツのことが、一瞬で吹き飛んだ。
 ――何なの?えらい目立つカップルじゃないのよ?
先にボックスに入り、軽く会釈をして私の目の前に座った女。
ううん、まだ二十歳前の少女だろう。はっとするほど愛らしい顔立ち、透き通る湖のような碧い瞳。陶器のようになめらかな白い肌。ノースリーブのワンピースから覗くすらりと伸びた手足。
まさにスクリーンの中から出てきたような美少女だ。こんな娘、最近デビューしてたのかしら?
少女が笑いなが、隣を覗き込むような仕草をした。その眩しいくらいの細い金髪がふわり、と肩から胸へと流れる。同性ながら、あたしはもう何処を見たらよいか分からないほどドキドキしていた。
 だめだ……しょーがないので隣に座った男の方に視線を向けることにする。

 しかし、それがまたマズかった。もうマヂで、息が止まるかと思った。
少女より幾分年上だろうか?まだ若い精悍な顔立ちに意志の強そうな黒い瞳が光る。瞳と同色の少し長めの前髪が額にかかって、ちょっと甘い表情を醸し出していた。日焼けした肌と白いラフなシャツがよく似合う。
って・・・・・・まあ、結局イイ男は何着てもイイ男なんだけどね。
細身だけど逞しい腕や、ヴィンテージジーンズを履いた長い脚はひと目で鍛えられている身体と分かる。
アスリートかしら?それともやっぱりモデルか何か?だめだ……こっちも何処に視線を合わせたらいいやら、全然わかんない。

 短い時間の間に、ぐるぐるとあたしは頭ン中でこれらのことを一気に考えていた。もう、脈拍数が上昇しっぱなしで、ろくに思考回路が働いてない。
少女が彼の耳元に顔をよせ囁いたあと、鈴を転がすように笑った。

 ――あー。若いっていいよねェー、何があっても楽しいもん。
それも好きな人と一緒だったら、なおさら。あたしだって、そんな時代あったのよぉ。(たぶん)
 なんだか、やっぱしムカついてきた。
神サマってほんと、不公平だわ。何もMAXどん底な今のあたしの前に、こんなスーパーモデルばりのカップル寄越さなくたっていいじゃない?
それもモロ直球ど真ン中、垂涎モノのあたし好みの男がきちゃってさ。
彼ひとりならイイわよ?神サマに百万回だって御礼言うし、賽銭だってはずむわ!
でもあんな綺麗な彼女連れぢゃあー妄想だってままならない。もう、あんたなんて生きててもなーんもイイことないよ?なんて言われてるみたいじゃないのよ!?
 ――ほんっとに気分が悪くなってきた。このカップルのせいじゃないけど……次のステーションで降りちゃおうかな。

 なーんて、ぶつぶつ口の中でぼやいていたら。それまであまり聞こえてこなかったふたりの会話が突然耳に入ってきた。
あらら?ちょっとおふたりさん、もしかして喧嘩してる?さっきまであんなに仲良かったじゃないのよ。
コトの起こりが何なのかさっぱり分からなかったが、どうやら彼女の方が怒ってるらしい。
んもう、どっちでもいいってなんなのよ!なんて白い頬を紅潮させている。
でも、美人って得よね。だって怒ってても綺麗なんだもん。
彼の方はただただ、とまどった表情だ。はーん、いっつもこんなカンジだんだろうね。この男、格好イイけど意外と鈍いのかもしんない。
やめろよ、こんなとこで、なんて周りを気にしてる場合じゃないのよ。ったく、若いのねェ。
いい?女ってね、底なしに欲張りなのよ。いつも一緒に居るだけじゃ、満足できないんだから。いっぱいいっぱいときめく言葉も欲しいし、とろける様な愛情も欲しい。皆の居る前じゃなくてもイイからさ、ちゃんと態度で示してほしいのよね。女ってほんと、勝手な生き物なんだけどさ、そこんとこ分かってあげないと。

 いっつもそんな曖昧なことばっかり。あたしの気持ちなんて全然わかってないんだから!
 なんだよ、何をそんなに怒ってるんだ?

――あら?どっかで聞いた台詞じゃない。それもごくごく最近。
そう今朝よ、けさのあたしたち!
 結局、若さなんて関係ないのね。そうよ、男と女なんて幾つになってもバカなのよ。同じことの繰り返し。なーんにも学習しないダメな生き物。
 ……なんだか、テンションが下がってきた。
目の前でカップルにいちゃつかれるのも腹たつけど、喧嘩されるのもヤだなー。
特にさ、なんだか自分たちの姿を鏡で見てるようで(容姿は全然ちがうけど)ほんっと、気が滅入る。

 ふたりはやがて静かになった。もう口をきく気もないらしい。
彼女の方はそのコバルトのような美しい瞳に涙をいっぱい溜めて、夕暮れ間近な窓の外をじっと見ている。あたしが男だったら、その風情だけで確実にイチコロなんだけどね。こんな娘、ひとりにしちゃ絶対ダメよ。
彼の方も、どーしようもない、と云ったカンジで反対側の窓を見遣る。まあ、いつものことなので彼女の怒りがおさまるのを待とうって方針なんだろうけど。そーゆーのって成長しないのよね。

 なんだか今度はちょっと可笑しくなってきた。
こんな夢みたいなスーパーモデルカップルも、結局はうちらと同じような恋愛をしてるワケだ。そうだよねー顔や容姿だけで恋愛してるワケじゃない。心よココロ。問題はハートなのよ!
 あたしは自分でも性格悪いなーと思いながらも、ちょっとイイ気味、みたいな気分になってきた。
 このふたり、もしかして破局しないかしら?彼女、次のステーションあたりで降りない?
そーしたら、後はあたしがヨロシク彼を引き取るわぁー。







 あたしがそんなバカな妄想を嬉々としてしている間に、窓を眺めていた彼女がうとうとし始めた。
そうよねェー。怒るって体力も気力も要るのよ。結構、疲れちゃうのよね。

 白い小さな顎を支えていた華奢な手が、わずかな列車の振動で突然はずれる。その小さな金の頭が窓ガラスにぶつかって大きな音をたてた。
 ――うわ。あれ、痛いのよねェ。うんうん、あたしもよくやるよ。
 彼もその音に驚いて隣を振り返る。あらら…でも彼女、すっかり疲れちゃってるのか起きる気配もない。糸の切れた人形のように、ぐったりと窓辺にもたれかかっている。そんな様も可愛いーよねェ、ふん。
 と、彼が突然、噴き出した。頭をぶつけても起きない様に呆れたのだろう。下を向いてくくっと笑う。
私もつられて笑いそうになったが……面をあげた彼の表情を見て、黙り込んでしまった。

 彼は頭を少し傾げ、なんとも云えない優しい表情で彼女を見ていた。
前髪の間から覗くその瞳は優しい色でいっぱいになり、引き締まっていた口元は少し緩るんで、ほんとうに愛しそうに微笑む。
やがて彼はその日焼けした左腕をそろそろと身体の後ろから廻し、大きな手で彼女の小さな頭を支えた。くったりとしている身体を、目を覚まさないようにゆっくりと抱き起こす。彼はまるで壊れ物を扱うように慎重に、そして限りなく優しく、自分の左肩にその金の頭をもたせかけた。

 私はその様子をずっと息を止めたまま見つめていた。
いや、止めてたんじゃない。正確に言うと息がつけなかったんだ。もう息がつけないほどドキドキして、そして胸が締め付けられていた。

 もう先ほどのふたりの喧嘩や、彼の不甲斐ない態度などいっぺんに吹き飛んでしまった。
彼のあの仕草と、彼女に向けられた優しい表情だけで、もう何も云う事など無かった。なんだかたまらないほど胸がきゅんとなり、思わず涙がこみ上げてきそうになる。

 ――ごめん、あたしが間違ってた。
たくさんの甘い言葉じゃないわ。何度も繰り返されるわざとらしい態度でも、しょうことなしに示されるおざなりの愛情でもない。ほんとうに大切な時に見せてくれるその一瞬の優しい仕草、その眼差し。
指先から、瞳から、口元から。全身から溢れ出るような、温かくすべてを包み込んでくれるその想いがあれば……充分なのよね。
 あたしはふっと昔見た映画を回想するように、ある情景を想い出していた。

以前あたしが疲れてソファで眠ってしまった夜、ふと目が醒めると身体に柔らかなブランケットがかけられていた。頭の下には枕がわりにクッションが押し込まれ、床には心地よい暗さの灯りが置かれている。突然、目が醒めた時に周りの状況が分かるようにしてくれていたのだろう。
 ――ああ、そうだ。
ヤツもあんな『優しい瞬間』を、あたしにくれたことがあったんだ。

 最近は顔を見ると喧嘩ばかりしていた。全然あたしのことを考えてくれないヤツに、わかってくれないアイツに不満ばかりぶちまけた。
でも、それって……あたしにも言えることじゃなかったの?
 自分のことばかり考えて、ヤツの気持ちなんて全然思ってもみなかったあたし。ヤツの気に入らないとこばかり目がいって、優しかった仕草や、眼差しをすっかり忘れていた。全然わかってなかったのは……もしかして、あたしのほう?

 あたしの目から自然と涙が溢れて、頬を伝った。自分の手にぽつり、と落ちて初めて気付いた。
 ――そうよ。全然気付いてなかったのは、あたしのほう。

 彼のしっかりとした肩にもたれかかって、彼女はほんとうに幸せそうに微笑んでいた。細い金の髪が彼の肩から胸へと流れ落ちる。彼の指がそっと、彼女の頬にかかった髪を優しくなおした。彼は静かに、そう、まるで大切な宝物を見護るかのように、かぎりなく優しい表情で彼女の寝顔をずっと眺めていた。

 私は今すぐ彼女の肩を揺さぶって、起こしてあげたい衝動に駆られた。
大丈夫よ、あんたこんなに愛されてるじゃない。こんなにも彼が優しく包んでくれてるじゃないのよ。
イラついたり、不安に思ったりすることなんて、なにひとつ無いのよ。
 ――でも、たぶん……彼女もわかっているんだろうな。
だって、こんな仔猫のように無防備で、心の底から安心しきった表情で、ほんとうに幸せそうな顔で眠っているんだもん。

 私はいつのまにか、胸がいっぱいなっているのに気付いた。
そう、なんだかわかんないけど、温かい幸せな気持ちでいっぱいに満たされている。きっと彼らの幸せをお裾分けしてもらったんだろう。
 次のステーションで降りて、その足でマーケットに寄ろう。
そこで新鮮な食材を買い込んで、今夜はヤツの好きなパスタ料理を作ってあげよう。
そうそう、その前に乾杯するシャンパンも忘れずに選ばなきゃ。
あたしは自分の素敵な思いつきに、急にうきうきとしてきた。朝から続いていた最悪な気分は、もう完全に何処かへ吹き飛んでいた。

 と、彼の方がふいにあたしの方を見る。
やばい。あんまりあたしが嬉しそうにニマニマと彼らを見ていたので、気付かれたのだ。
彼は一瞬、訝しげな表情をした後、はっとして肩にもたれかかる彼女を見た。そしてみるみる首筋まで真っ赤になり、慌ててそっぽを向いて俯く。
 ――かっわいー。お、オンナ心をくすぐるわぁ、この仕草も。
でもね、ダメよ。あたしにはヤツがいるの。あんたみたいに格好よくもないし、脚もさほど長くはないけど、ほんといいヤツなのよ。
などと、あたしはまったくゲンキンなことをつらつらと思いながら、窓の外に目を遣る。
 緩くブレーキがかかり、列車が次のステーションへ入ってゆくのがわかった。

 あたしは隣に置いてあったバッグをとりあげ、肩にかけた。もう一度、目の前の彼らを見る。
彼女は相変わらず彼の肩にもたれかかったまま、すやすやと寝息を立てている。
彼はあたしと目線が合わないように、俯いたままだ。(う、やっぱ可愛い!)
 列車が強くブレーキをかける。車窓に人々が行き交うホームの風景が入ってきた。

 あたしはおもむろに席から立ち上がった。
ボックスシートから通路に出る際に、わずかに腰をかがめて彼の頭に近づき、そっと囁いた。
「ありがと」
彼は驚いて顔をあげ、とまどった表情をみせた。
うふふ、そうよね。前に座っていたとはいえ、見知らぬ人にお礼言われてもねェ。
あたしは彼のそんな表情におかまいなく、さっさと通路に出て扉に向かう。
――だって、お礼言いたかったんだもの。今朝からの最悪の気分を吹き飛ばしてくれて、優しい瞬間を見せてくれて、幸せのお裾分けもらったんだもの。

 空気の抜ける音がして、列車の扉がゆっくりと開く。
あたしはホームへ軽快に一歩を踏み出した。そうよ、これってあたしの新しい一歩。このすがすがしい一歩をこれからずっと、忘れないようにしなくちゃね。

あたしはもう振り返ることも無く、跳ねるような足取りで改札口に向かって歩き出した。



<END>





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