――この像の前にひざまづくのは、もう何度目だろう?

 リーベンバーグ郊外にあるこの病院の中庭には、小さなブロンズ像が置かれていた。
特定の宗教系列の病院ではない筈だが、ある患者の家族から寄贈されたらしいそれは、人類発祥の地テラで古くから信仰されている聖母マリア像であった。
柔らかい曲線を描く肢体のマリアはその二の腕に小さな赤子をかき抱き、瞼をゆったりと閉じて静かに微笑んでいる。
しかし、雨ざらしとなって月日を重ねたブロンズは風化がすすみ、聖母マリアの両目から幾筋も流れる雨の模様はかすれた白い筋となり、まるでそれは『涙の痕』のようだった。

――そして。
その像の前でひざまづき俯くアルフィンの頬の『涙の痕』も……この数日消える事は無かった。

 ジョウがテュポーンとの闘いで瀕死の重傷を負い、虫の息でこの病院に運ばれたのは3日程前のことだった。
アルフィンと一緒に駆けつけた救急隊員の応急処置が功を奏し一命を取り留めたものの、依然意識は戻らず、彼は生死の境を彷徨っていた。
彼女をはじめタロスもリッキーもこの3日間ほとんど一睡もせず、ICUで治療を受けるジョウの姿を、ただガラス越しに見つめるしかなかった。
白い包帯に包まれ、幾本ものチューブで医療機器に繋がれたジョウの姿は本当に痛々しいものだった。
いくつかのモニタに映る波線や点滅する数字だけが、彼の命の存在をかろうじて証明していた。
そんな姿を正視することが出来なくなり、我知らずアルフィンはふらふらと病棟を抜け出してしまう。
そして気が付くと、この小さな像の前にひざまづている自分が居るのだ。
――最愛の人の為に神に祈ること。
ただそれだけが限界を過ぎた彼女の身体と気力を、かろうじて繋ぎ留めているのだった。


「まあ、こんな寒い朝に。風邪をひいてしまうわよ?」
柔らかい女性の声がアルフィンの想いを遮った。
声のした方に顔を向けると、木蔭にひとりの小さな老婦人が立っていた。
白鳥を思わせる細い首をわずかに傾げ、アルフィンの顔を覗き込むようにしている。銀髪を後ろで小さく纏めた上品な面立ちは、若かりし頃の美しさを偲ばせた。
アルフィンは頬に残る涙の痕が見えないように、少し顔を俯かせた。

「ご家族の方が入院されているの?」
老婦人はゆっくりと歩み寄りながら、静かな声で尋ねた。
アルフィンは小さく横に首を振った。細い金髪が震えるようになびく。
「それでは・・・・・・あなたの大切な方?」
その問いかけに思わず、涙がこみ上げてきそうになる。

――そう。とってもとっても大切な人。
この世にたった一人しかいない、大好きなジョウ。

零れ落ちそうになる涙をこらえるように、顎をわずかに引いた。
その弱々しげな仕草に、老婦人は心配そうに近づく。そして自分が羽織っていたローズ色のショールをアルフィンの肩にふわりとかけた。
驚いたアルフィンは顔を上げ、その細い指が肩にかかったショールを押さえた。
そのカシミヤのような柔らかな暖かい布地が優しくアルフィンの身体を包み込む。
「寒いでしょう?」
老婦人が優しくアルフィンの白い手に触れた。と、驚いて目を瞠る。
「まあ!こんなに手先が冷たくなってしまって」
老婦人は柔らかなその小さな手で、アルフィンの氷のように冷えた両手を包み込んだ。
そして一言ずつ、ゆっくりと言葉を置いてゆくように話しはじめた。

「いいこと?『冷たさ』は手足の先からだんだんと伝わってくるけれど。『哀しみ』は真っ直ぐ心へ伝わるの。
あなたがそんなに哀しんでいると、その想いが彼の心に届いてしまうわよ」
まるで命の息吹を注ぎ込むかのように、老婦人は少女の小さな手をゆっくりとさする。
アルフィンは母親のように心地よいその話声を聞きながら、うっとりと目を閉じた。
「だから彼の傍では楽しいことをいっぱい考えなさい。溢れるようなあなたの明るい気持ちは、きっと彼の心に伝わるわ。そうすれば彼はどんどん元気になるわよ」

 アルフィンがゆっくりとその顔を上げた。
涙に濡れた碧い瞳が朝の陽光にさらされて、しっとりと輝いた。
「まあ。なんて素敵な瞳をしてらっしゃるの?
濡れた様子は深く青い海のようだけれど。お陽さまの下では限りなく澄んだ青空のように見えるわ」
老婦人がちょっとおどけて、詠うように言った。
思わず、アルフィンが恥ずかしそうに微笑む。
すると老婦人は優しく目を細め、小さな手でそっとアルフィンの頬に触れた。
「そうやって笑ってらっしゃい。あなたの哀しい顔は寂しすぎるわ。
あなたのその暖かなお陽さまのような笑顔が、彼をきっと元気にしてくれるわ」

 この数日間重苦しく胸につかえていた氷の塊が、ゆっくりと融けてゆくのがわかった。
アルフィンは立ち上がって肩のショールを外し、丁寧に礼を述べて老婦人に手渡した。
老婦人は彼女の可憐な花が咲いたような笑顔をしばらくの間嬉しそうに眺め、それから華奢な少女の身体をそっと抱きしめた。
そしてゆっくりと、その場から去って行った。

 その小さな後姿を見送ったあと。
アルフィンはふたたび傍らのブロンズ像を見上げ、眩しそうに目を細めた。
薄く明るい陽光が聖母マリアの上にも暖かく降り注ぎ、優しげな微笑む顔を白く輝かせる。
雨だれが作った頬の白い筋は、もうよく見えなくなっていた。
まるで朝の陽光がマリアの『涙の痕』も消し去ってしまったかのようだった。

 この陽光のように。
私は眠る彼の傍らに座り、その大きな手を包みこんで。
この暖かい想いを注ぎ続けよう。
私の想いは真っ直ぐ彼の心に届き、それは熱い血潮に乗って彼の身体全体にゆきわたるだろう。
彼の足先や指先はゆっくりと温かくなり、そしてある日突然。そうとは気付かないくらい、微かに動く。

 やがて黒い睫毛がしばし震えたあと、瞼がゆっくりと開かれる。
その下からは見慣れたあの漆黒の瞳が現れ、きっと私の姿を見つけてくれる。
見つけた途端その瞳は優しく細められ、柔らかな唇がわずかに開く。
そしていつもたまらないほど私の心を揺さぶる、あの微笑をくれるのだ。
――そう、必ずきっと。

 アルフィンは自分の想い浮かべた光景に、ふっと微笑む。
ジョウの目が醒めたら、何を最初におねだりしようかしら?

 欲しかったファー付きの帽子
 ふたりで観たかったクラシック・ムービー
 一日の終わり、燦く鏡のような海に沈む赤銅色の夕陽

――ううん、それよりも。

私の名前を呼んで欲しい。
いつものように。そう、少し照れたように。
ためらいがちに「アルフィン」・・・・・・と。

 少女は小さな金の頭をしっかりと上げ、ブロンズ像に背を向けた。
彼女のとりとめない空想が、病室に向かう足取りを軽やかにする。
跳ねるような歩みに合わせて細い金髪が、かろやかに宙に舞う。
柔らかな朝の陽光が、アルフィンの白い頬を透き通るように輝かせ
――そしていつしか。
涙の痕も消し去っていた。



<END>





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